速水彫刻まちおこしの道・(坂野長美レポート)



速水彫刻まちおこしの道」坂野長美(デザイン・レポーター)

静岡県沼津市は,県下東部地域の中核都市と言われ,現在入口21万余とあるから意外に大きい。…と言うのも失礼だが,新幹線は隣接する三島に取られ,JR在来線に私鉄・小田急のターミナルではあるけれど,東京辺りからはやや不便。特に話題性も提供されないままに,都市のイメージとしてはかなり漠然としていたのは正直な話しだったから。せいぜい名産・鰺の干物で,駿河湾に臨む海産物の町のイメージ。歴史的には江戸末期に,幕府ご親藩の水野家沼津城の城下町。明治維新成って駿河一国に移封された徳川家が,新時代の陸軍将校育成のためその城跡に開いた沼津兵学校は,初代校長・西周のもと併設小学校とともに日本近代教育の先駆を勤めた。降って明治中期には大正天皇の皇太子時代に沼津御用邸が置かれ,戦後は市に譲られて,今は貴重な都市資産の記念公園となっている。松原の海浜に富士も望める景勝の地,西伊豆の玄関口として観光資源も豊富…など,事前の俄か勉強でもその程度であった。そこにこんど,突如として話題性が発生した。その都心部商店街のまちおこしにご存じ速水史朗氏が関わり,遂に完成した彫刻ストリート・ファニチュアーいや「街具」の道である。実は「街具」とはこのたび思い付いた新造語。近年パブリック・アートがデザインの領域にもボーダーレスに展開,中でもストリート・ファニチュア系で面白がらせてくれているのは周知の通りだが,既存のデザイン用語ではどうも納まり切れないものがあるのだが,このデザイン用語ではどうも的確に押さえきれないものがあるのにひとしきり悩んだ結果である。特に今度は,彫刻を即サイン化するなどでこの傾向に独自に先鞭をつけてきたような速水氏だけになおさらだ,とひとしきり悩んだ結果である。あるいはもうどこかで使われているのかもしれないけれど,その場合はあしからず。

場所はJR沼津駅からほど近い,かつては市中随一の繁華街だったという町方町の「アーケード名店街」に,続く上本通り商店街南側の延長約300mという歩道両側。そこに出入口のモニュメント4基と街具13基が点在している。それが速水彫刻独特の,シンプルな抽象形態に生命がこもるような有機的フォルムで,地面から盛り上がり,波立ってはまた沈みながらベンチになったりスツールになったり。ゆったりくつろげる寝椅子のようでもあれば,滑り台か何かの遊具のようにも見えるものになったり。素材はいつもの深々とした質感の黒御影石。磨き込まれた表面が黒い鏡のように周辺景観を反映するのも,街と人とアートとの微妙な交流感を醸し出す…というものである。

「今回の仕事は,彫刻とはもう台座の上に仰ぎ見るようなものじゃないよ,そんな時代は終わった,と。人が触れることで彫刻は輝きを増す。もっと身近に,触れて遊んで親しんで欲しい。とくに子どもが遊んでくれたらいいな,と。そういう意志でやった。だから商店街の中に入ってくというのは,凄くぼくは楽しみだったんですよ」と速水氏はニコリ。それにしても四国讃岐の速水氏が,駿河の沼津にいつのまにこれだけ深く関わっていたのか。もっとも故郷・多度津に根差しながら北海道から鹿児島まで,四国八十八箇所開祖のお大師さん並みに足跡を残す氏としては別に不思議はないとしても,東京の方が近いのに何となく盲点に入っていたような沼津での降って湧いたようなこの活躍は,やはり意外性に富んでいるというほかない。

実はそのきっかけというのが,同じく降って湧いたような話だったのだから面白い。事の起こりが2002(14)5,この町筋の一角に本拠を構える沼津信用金庫の「ストリート・ギャラリー」で,県下初でほぼヶ月間開かれた「速水史朗彫刻展」。このギャラリーは,1987(62)の沼信本店新装オープンとともに,商店街側の横丁の高さ約8m・巾21mというショーウィンドウを提供,『商店街の小さな美術館』と銘打って開設された。なぜかまだ美術館がないという沼津で,その肩代わりの意欲を込めた企画展を常時開催。市民に親しまれ,ユニークな企業メセナ活動としても注目されているというものである。そこに石と土の間を自由自在に往来することでも知られる速水氏の,土もの近作と,地方都市に焦点を絞った石彫パブリック・アートの写真パネルなど約20点が展示された。そのとき「どうせなら講演会もしましょうという」主催者提案で,日曜日の本店4階ホールを会場に『人と街と彫刻』と題して開催。当日はかなりの盛況だったが,そこで「彫刻を街の一部にする」という主旨のもと,速水節というかの瓢々とした中に人間性豊かな語り口で,とかく分からないと敬遠される現代アートを親しみやすく理解させることに努めたようだ。すると「終わったとたんに何人かの人がやって来て,先生,御輿に乗ってくれないかというんです。御輿て何だ?と聞いたら」…それが上記の街区の住民で,下記のような事情で「この先生に頼んでやろう,と」その場で一決。「それで僕に何か考えてくれ,というのがそもそもの始まりです」。

事情というのは,この街区がいま市で進めている街並み修景事業の対象となり,ちょうど実施段階に差しかかっているのだが,そこで提示された市の案を住民側が気に入っていない。何でも鉄製緑色塗装のストリート・ファニチュァー式で,よくあるレトロ調とかいうものだったらしいが,その打開策という目前の状況がまず大きかったようだ。しかし住民としてはもともと,寂れゆくこの街を如何に魅力ある街として蘇らせるかという問題意識を抱えて悩んでいた…と,ここからは「上本通り21プロジェクト委員会」という有志組織の,『明日の上本通り提案書』冒頭に見る,臨場感溢れる名文を引かせていただこう。

「・・そうした問題意識を持つ者がある日偶然速水史朗という現代彫刻家の講演会で出会い,アートで街がどのように変われるのかという話しに共感を覚えたのです。一種のヒラメキが磁場を作り共感する者がまとまって自然発生的に生まれたのが当委員会の起こりです」(委員会座長・遠藤忠男氏)講演会が終わるや否や,速水氏にアタックしてきたのがそのコア・メンバーの人々。その後直ちに行動開始して組織された委員会は,地元商店会に住民有識者の有志11名。その中に見える上本通り商店会理事長の長谷川徹氏が,今回プロジェクトのいわばキーマンで,先の講演会後に速水氏を取り囲んだメンバーの一人でもあった。実は本資料は,たまたまギャラリーについて問い合わせた担当者の,沼信業務推進部・溝渕俊次氏から提供されたのだが氏もまた事務局として尽力している。報告書の提案先は上本通り自治会及び同商店街振興組合。そこで町内をまとめた長谷川理事長が,早速地続きの「アーケード名店街」に呼びかけて横割り連携住民総意の提案活動に至った…という経緯のようである。

話しをもどすと,何はともあれ快諾した速水氏は,「それからはもう2ヶ月に1回ぐらい呼ばれては,勉強会というんですか,皆でああじゃない,こうじゃないと議論する。僕は皆の話しを聞いて持って帰って考えて,また絵を描いて持ってくる。それでまたいろいろと揉み合って…というのがここ3年来。足かけ4年にはなりますかね」。これまでベテラン彫刻家として数多くのパブリック・アートを手がけてきた氏としても,一つの街区全体という点から線,面に広がる仕事は初めて。それだけに気の入れ方も一倍だったようで,意識的にも「もう住民とあまりかわらない状況になってる。そんなにしてるうちに,こういう形になってきたということです。

もともとこの事業の大元には,国のまちづくり総合支援政策があり,駅前再開発なども含む『沼津セントラルパーク構想』の一環…と,話がだんだん大きくなってきたけれど,中で既存市街地に適用される修景計画は,街の活性化と歩行者優先の通り作りを目指すものと位置づけられている。その適用第1号のようだが,そこでいわば上からではなく下からのまちづりが盛り上がり,住民が行政のお仕着せ案に単なる反対ではなく代案を出す。それが一人の彫刻家との希有な出会いがあったことで「ほんとに住民の側から出てきた案,住民とぼくとで作り上げた」この街ならではの独自案として実現可能となった。それをまた行政も積極的に受け止めてバックアップし,予算面の調整を始め計画変更のための協力を惜しまなかったということでも,地方自治体のまちづくり最近の快挙と言えるだろう。

ところで上本通りとスクラムを組んだ「アーケード名店街」だが,ここがわざわざ「アーケード」と冠するのは,戦後もいち早い1954(29),全国初のアーケード街として誕生したことに由来する。歴史の古い商店街としては不思議に道幅が広いのも,今どきの話ではなく大正初期の沼津大火後に道路拡幅して以来。それが先の大戦末期には大空襲にも見舞われた復興期に,町ぐるみで耐火建築化され,同時に敷地前面提供方式で,せり出した2階レベル下をアーケード空間として統一したもの。これは今なおススんでると言える手法で,同様の方式としては横浜・元町ぐらいしか思い当たらない一もっともあちらは個別的提供空間の連続方式で形態的統一性はないけれど,おそらくその先駆でもあり,あの当時ではなおさら時代の先取り性を誇る斬新な街並みだったことと偲ばれる。ただし今やご多分に洩れぬシャッター商店街化の進行で,都心部空洞化の一象徴のようにも見えるのは事実である。防火対策の拡幅道路も,車社会化の今日では通過交通とかパーキング・エリア化で,せっかくながら裏目にも出ているようだ。しかし頑張っているところには,当地切っての老舗とか県外客にも評判という尊門店など「名店」の名に値する店々も多く,まちおこしパワーの源泉ともなっている。「まちの情報館」(事業主体:沼津地域産業振興協議会)という空き店舗活用施設が,まだ真新しい看板を掲げているのもその一環である。実はここでこの件に関する地元資料をあれこれ頂戴でき,またすぐ隣りの「正秀刃物店」店主で商店街振興組合理事長の大野隆久氏,ここまでご案内いただいた同・副理事長の,銘茶老舗「水ロ園」の水口隆太氏らのお話も伺えた。いずれも今回計画の推進に力のあった人々だが,速水氏については何よりもそのお人柄が魅力と,全幅の信頼が寄せられているようなのも,協同作業進行当時の熱気がうかがえるようで興味深かった。

こうして実現した「速水彫刻街具の道」が,いつもの有機的フオルムの曲面もひときわ流麗に,大波小波を連ねながら出没するのがふと水の流れを感じさせるのは,市中を貫流する「狩野川」という美しい川をシンボライズしたため。それは「水辺の風を感じるまちづくり」という,市の再開発構想のテーマに即してもいる。この川の名もあまりポピュラーとは言えないが,『天平の甍』などで知られる井上靖の,沼津中学に通った少年期を描いた半自伝的作品『夏草冬濤』に見出す次の一節は、そんな狩野川の位置づけとして適切なものがあると思う。「(天竜川、大井川,富士川,安倍川などは)いずれも大河として知られた川である。そうした大きい川のある静岡県でも狩野川はそれに続く川であるし,大きさを別にすれば,静岡県ではもちろんのこと,日本でも有数の美しい川であるに違いなと、洪作は思っていた・・」。大きくない川とは言っても,堂々たる1級河川である。この通りからも数分距離で一望に開けるその眺めは,よく修景整備されていて洪作少年の見た風景とは大きくサマ変わりしているはずだが,確かに美しい川には違いない。城下町に付き物の川だが,これが沼津の「ふるさとの川」なのかと見直したとき,一瞬沼津アイデンティティというものを共有できる思いがした。源流は天城山に発して,道中合流する支流には富士の湧き水で名高い清流に,ミシマバイカモなども秘める柿田川や、頼朝義経兄弟初対面の場の黄瀬川などもあるという。

逆に沼津駅前に見る都心部街並み景観が,今どき全国どこでも似たり寄ったりで,別に沼津らしくも何もないのはやはりご多分に洩れず。駅前中央通りは20万都市としての威容をけっこう整えた大型ビル街だが,「サンサン通り」と名付けられた高張りアーケード街でもあって,どこか平塚辺りの湘南の沿線都市風。すぐ次の狭い通りになると趣き一変して,庶民的アメニティに富む全天候型アーケード商店街,その名も浅草調だったりする。ここからもう1本次の通りが上本通り.アーケード名店街で,つまり今では繁華な商業施言の外れに位置していることになる。しかし表通り側の町名が「大手町」で,アーケー名店街が「町方町」というような地名が伝えるとおり、かつては武家町と町方との境界地帯だったのがこの3本目の通り。つまりは県下3大商圏の一つと言われる商業都市・沼津の原点は、この町筋だということができる。それが都心部空洞化の象徴化しつつあったところへ,速水彫刻の道が完成したのがこの4月。文字情報としてのサインは特にないけれど、その総体が即座に、きわめてユニークなまちおこしの動きが起きたことのサインを送り始めて,早速県内外に評判を呼んでいる。NHKの日曜美術館でもいち早く紹介(4.10・アートシーン)されたし,地元マスコミも揃って好意的に報道,お客の反応も上々のようだ。

とはいえ,これからがまちおこし本番なのは言うまでもない。ひとまずはこれだけの本格アートに相応しい街の再生と,百年単位の彫刻的生命とともの末長い発展を願いながら,声援を送ることとしたいが,そこでも十分期待できるのが住民パワーのまた新しい発動である。例えば上本通りの長谷川理事長が,今回は対象外だった通り北側・230mへの延長を目指しながら打ち出している,「芸術や文化をキーワードにしたソフト面の事業を積極的に行いたい」という抱負など。(静岡新聞7.15)こちらの側も速水氏は,既に構想済みだという。「やはり勉強会なんかがあってね。今度は役所の方がそこまで予算の面倒を見てくれるかどうか,その辺は分かりませんがね,とりあえず計画はしてある。だから何年か先には駅まで続いてしまうのかもしれない」。

ぜひそうなって欲しいと思う。もしそうなれば,速水アート狩野川の流れがさらにイメージをふくらませながら駅前まで一続きとなり,この界隈からは見えない狩野川の代わりに目を潤し体を休めさせてくれる。駅前再開発ビルも既に着工中で,沼津も今後まだまだ大きく変貌しそうだが,それとも関連づけながら沼津らしさのシンボル・ロード化するとすればすばらしい。こんど改めて沼津とはもっと知られていい街だと実感したけれど,そのための発信力もおおいに高まりそうだ。ともあれ最後に,漠然としていた沼津の都市のイメージ一転,オリジナリティに富む住民パワーを秘める「速水彫刻街具の道」として鮮明な像を結んでくれたのは嬉しく,何よりの沼津土産になってくれた。本場の名産・鰺の干物とともにー。

(SIGNSinJapan2005−3「117号」)